槎上通信

「日本史」といういかだに乗って

明治大学図書館司書・徐基俊を探して

*この文章は韓国・国立中央図書館から刊行された月刊『今日の図書館』2021年11月号(第31巻第9号、通巻297号、2021年10月29日発行)に収録されたものの日本語訳です。(韓国語原文:김현경, 「메이지대학 도서관 사서 서기준을 찾아서」, 『오늘의 도서관』 31(9), 2021。下はWeb版のリンク)

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【目次】朴秀哲『織田・豊臣政権の寺社支配と天皇』(2012年)

朴秀哲『織田・豊臣政権の寺社支配と天皇ソウル大学校出版文化院、2012年9月
(박수철, 『오다・도요토미 정권의 사사지배와 천황』, 서울대학교출판문화원, 2012)

 

はじめに ー 1

序論 ― 15

第1部 織田・豊臣政権と寺社

 第1章 織田・豊臣政権の寺社:研究動向と課題 ― 31
  (初出「織豊政権の寺社支配について:研究動向と課題」『東洋史学研究』73、2001年1月、韓国語)
    1.戦前~1950年代
    2.1960~1970年代
    3.1980~1990年代以後
    小結

 第2章 織田政権の寺社支配 ― 69
  (初出「織田政権における寺社支配の構造」『史林』83(2)、2000年3月、日本語)
    1.寺社支配の類型と原理
    2.寺社支配の展開
    小結

 第3章 豊臣政権の寺社支配 ― 103
  (初出「豊臣政権における寺社支配の理念」『日本史研究』455、2000年7月、日本語)
    1.寺社支配の原理と展開
    2.1594年(文禄3)「寺院法度」の意味
    小結

 補論1 戦国大名と寺社:六角氏と延暦寺 ― 145
  (初出「戦国時代近江守護六角氏の<地域統合>課程:延暦寺との関係を中心に」『歴史学報』170、2001年6月、韓国語)
    1.六角高頼延暦寺領荘園侵奪
    2.六角定頼の領国支配と延暦寺
    小結

 補論2 織田政権の神社政策と吉田社 ― 181
  (初出『歴史学研究(韓国)』32、2008年2月、韓国語)
    1.室町幕府の再建と吉田社
    2.織田政権の確立と吉田社
    小結

第2部 織田・豊臣政権と天皇

 第1章 織田政権の公家政策と「王権」 ― 213
  (初出「織田政権の公家政策と「王権」:1581年馬揃を中心に」『東洋史学研究』115、2011年6月、韓国語)
    1.公家政策の推移と馬揃
    2.馬揃と公家衆の再編
    小結

 第2章 織田政権の「武家神格化」と天皇 ― 251
  (初出『歴史教育』121、2012年3月、韓国語)
    1.「武家神格化」と「御威光」の意味
    2.織田政権の天皇認識と祭祀権
    小結

 第3章 豊臣政権の天皇観と「武威」 ― 287
  (初出『歴史教育』105、2008年3月、韓国語)
    1.関白叙任と「皇胤説」の流布
    2.「日輪の子」論理と「武威」
    小結

 第4章 豊臣政権の推移と天皇 ― 319
  (初出「豊臣政権の推移と天皇儀礼・祈祷の側面から」『日本歴史研究』31、2010年6月、韓国語)
    1.禁裏参内の意味
    2.祈祷権の所在と豊臣政権の限界
    小結

第3部 織田・豊臣政権と思想

 第1章 戦国および織田時代の政治思想 ― 351
  (初出「室町後期の政治思想」金容徳編『日本史の変革期をみる:社会認識と思想』知識産業社、2011年8月、韓国語)
    1.天道と下剋上の時代
    2.公儀と中世国家権力
    小結

 第2章 織田・豊臣政権と神国思想 ― 381
  (初出「近世初日本の「鎖国」と神国思想」『日本語文学』23、2004年12月、韓国語)
    1.鎖国論の検討
    2.「鎖国」の展開と神国思想
    小結

 第3章 豊臣政権と「壬辰戦争」 ― 403
  (初出「15・16世紀日本の戦国時代と豊臣政権:「壬辰倭乱」の再検討」歴史学会編『戦争と東北亜の国際秩序』一潮閣、2006年6月、韓国語)
    1.戦国時代の性格と豊臣政権
    2.豊臣政権の指向と「壬辰戦争」
    小結

 第4章 織田・豊臣政権の特質と「かぶき」「功名」 ― 433
  (初出「「かぶき」と「功名」からみた16世紀の日本社会」21世紀リーダー型歴史学教育事業団編『地域交流の文化からみた歴史』審美眼、2008年2月、韓国語)
    1.「かぶきもの」と「南蛮文化」
    2.「功名」の内容と構造
    小結

 補論1 戦国時代の記録と社会思想 ― 459
  (初出「室町・戦国時代「記録」と『大乗院寺社雑事記』」『東亞文化』39、2001年12月、韓国語)
    1.『大乗院寺社雑事記』の成立
    2.『大乗院寺社雑事記』の内容と思想
    小結

 補論2 豊臣秀吉はなぜ将軍になれなかったか ― 481
  (初出「豊臣秀吉はなぜ将軍になれなかったか:日本歴史の一断面と特質」『全南史学』21、2003年12月、韓国語)
    1.将軍と関白
    2.豊臣秀吉という人物
    小結

結論 ― 499

初出一覧 ― 510

索引 ― 511

【案内】韓国・日本史学会2020年7月月例会

7月18日(土)開催予定。

場所と時間は未定。(オンライン開催も可)

 

第1発表

李領(放送大学校)「高麗禑王元年(1375)の羅興儒の日本使行と水島の変」

 コメント:李世淵(教員大学校)

 

第2発表

安浚鉉(嶺南大学校)「ほすととさいばんちょうとおんなと―『明治前期大審院刑事判決録』にみる近代移行期強姦の構造ー」

 コメント:沈煕燦(延世大学校

 

第3発表

魏晨光「第1次世界大戦期台湾総督の後任人事と陸軍内における寺内正毅の位置」

 コメント:朴完(江陵原州大学校)

【案内】2018年日本史学会(韓国)夏季ワークショップ

2018年日本史学会(韓国)夏季ワークショップ

「東アジアの災難と病気、拡散する衛生と医学」

 

日時:2018年8月17日(金)~18日(土)

場所:全北大学校博物館講堂

 

1日目:8月17日(金)

 

第1部 司会:金普漢(檀国大)

①13:30~13:55

宋浣範(高麗大)

「災難と古代日本」

②13:55~14:20

張基善(宮城教育大)

「日本近世・近代医学知識の社会的機能―診断書・戸籍制度を例として―」

コメント 14:20~14:50

姜銀英(全南大)

キム・ソンヒ(建国大)

 

休憩・特別資料閲覧 14:50~15:20

(『東医宝鑑』完版本とその木版、『増修無冤録』木版、『増修無冤録諺解本』木版)

 

第2部 司会:金宗植(亜洲大)

③15:20~15:45

扈素妍(京都大)

「明治時期の墓地制度と衛生」

④15:45~16:10

パク・ユンジェ(慶煕大)

「衛生から清潔へ―ソウルの近代的糞尿処理―」

⑤シン・キュファン(延世大)

「ペストと帝国医学」

コメント 16:35~17:20

李垠庚(ソウル大)

姜泰雄(光云大)

李炯植(高麗大)

 

休憩 17:20~17:30

 

第3部 総合討論 17:30~18:30

座長:シン・ドンウォン(全北大)

 

2日目:8月18日(土)

巡見(韓屋村など)

【案内】第86回日本史学会(韓国)月例発表会

第86回日本史学会(韓国)月例発表会
2018年3月17日(土)14時〜17時半
於・高麗大学校 芸樵又仙教育館201号

1) コ・デソン(ソウル大)
「室町殿の出行とその意味ー足利義満と義持を中心にー」
* コメント: イ・セヨン(漢陽大)

2) ナムグン・チョル(延世大)
「戦後沖縄の自己決定権の模索と「反復帰論」ー新川明を中心にー」
* コメント: イム・キョンファ(中央大)

3) イ・キルフン(ソウル市立大)
「日本近世都市史ー明地(あきち)と代地(だいち)にみる江戸ー」
* コメント: ヤン・イクモ(韓国外大)

 

朱正暾氏の研究について

歴史学報』「回顧と展望」において、1970年代の数少ない「純粋な日本史」論文の中で朱正暾(ジュ・ジョンドン)氏の研究が2本見られることについては別の記事で述べた。

sajo.hateblo.jp

しかし、その内容は兼好法師の出家に関するもので、朱正暾氏はおそらく日本史研究というよりは日本文学の研究の一環として兼好法師に触れたのではないか、と筆者は考えるようになった。韓国の日本史研究は1970年代に入ってもあまり活発ではなかったが、それに対して日本語や日本文学の研究はもっと早い段階で発展の様相を示していたと思う。

 

朱正暾氏は1995年、啓明大学校人文科学大学日語日文学科副教授職を退任した。啓明大学校日本文化研究所『日本学誌』第15輯(1995年2月)は「青鶴朱正暾教授停年記念」号として発刊されたので、その中に年譜と研究業績のリストが載せられている。以下、その内容に基づいて朱正暾氏の業績を検討したいと思う。

 

朱正暾氏の号は「青鶴」。1930年1月、咸鏡南道端川で生まれた。端川は現在北朝鮮支配下にあり、朱正暾氏は朝鮮戦争の時に南下して韓国で活動することになったと考えられる。18年間陸軍将校として勤めた後、1974年には国際大学(現・西京大学校)日語日文学科を卒業した。1976年には韓国外国語大学大学院日本語科で碩士(修士)号を取得。関東大学、国際大学や全南大学校などで講師を勤め、1978年から全南大学校師範大学の助教授、1983年からは啓明大学校で副教授になった。著書としては『大学日本語』『大学日本文法』という日本語テキストを出している。

 

論文のリストは以下の通り。ほぼすべての論文が日本語で書かれている。中には図書館や論文サイトを通して閲覧できるものもある。ただ、ハングルで書かれている場合が多く、韓国語のわからない利用者には不便。韓国の学術論文データベースDBpiaでの検索結果のリンクを挙げておく。(http://www.dbpia.co.kr/SearchResult/TopSearch?isFullText=0&searchAuthor=%E6%9C%B1%E6%AD%A3%E6%9A%BE)ここでは『日本学誌』に収録された論文が確認できる。サイトは英語対応可能で、機関会員の場合にはダウンロードもできる。

 

*「方丈記の文体に関する研究」

(韓国外国語大学 碩士論文)1975年12月

*「方丈記の広本系統と略本系統との比較的研究」(1)(2)

(『関東大学論文集』第4輯・第5輯、1976年2月・1977年2月)

*「卜部兼好の出家時期について」

(『龍鳳論叢』第7輯、1977年12月)

*「卜部兼好の出家の動機について」(1)(2)

(『龍鳳論叢』第8輯・第10輯、1978年12月・1980年12月)

*「鴨長明の芸術的文学精神について―方丈記を中心に―」

(『韓国外国語大学第25周年記念論文集』第12輯、1979年6月)

*「池亭記と方丈記との比較的研究―作者の意識構造的側面を中心に―」

(『日語日文学研究』第1輯、1979年12月)

*「方丈記の作者と芸術の世界」

(『龍鳳論叢』第11輯、1983年12月)

*「徒然草の序段と随筆的価値」

(『日語日文学研究』第5輯、1984年6月)

*「兼好の人間観―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第5輯、1985年2月)

*「兼好の自然観―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第6輯、1986年2月)

*「兼好の発展的無常観―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第7輯、1987年2月)

*「兼好の無常観とその文学的世界―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第8輯、1988年2月)

*「兼好の伝記研究(1)―家系と家族関係を中心に―」

(『日本学誌』第9輯、1989年2月)

*「兼好の伝記研究(2)―二十代の社会圏を中心に―」

(『日本学誌』第10輯、1990年2月)

*「兼好の伝記研究(3)―関東下向と出家―」

(『日本学誌』第11輯、1991年2月)

*「兼好の伝記研究(4)―出家後の生活とその動静―」

(『日本学誌』第12輯、1992年2月)

*「兼好の伝記研究(5)―四十代を中心に―」

(『日本学誌』第13輯、1993年2月)

*「兼好の伝記研究(6)―兼好自撰家集と徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第14輯、1994年2月)

*「兼好の伝記研究(7)―没年と終焉地を中心に―」

(『日本学誌』第15輯、1995年2月)

 

耿君 識

『歴史学報』の「回顧と展望」と日本史 その二

(その一はこちら)http://sajo.hateblo.jp/entry/2018/01/13/000225

 

1970年代に入っても『歴史学報』「回顧と展望」に日本史項目が設けられることはなかった。東洋史はあくまでも中国を対象とする研究に限られており、日本史の出番はなかった。それでも日本史に関する研究が増えていくという状況は確かに捉えられていた。『歴史学報』第84輯(1979年12月)に載せられた李龍範(イ・ヨンボム)「東洋史・総説」から、当時の東洋史研究者が日本史研究の必要性を強く意識していたことがわかる。

 

中国以外の東洋史学に対する1976年から1978年までの業績として刮目すべきなのは日本史および文学・考古学・言語研究であろう。

まず、3年間で発表された日本学に関する研究は大略71篇程度が数えられるが、時事的な論文と言語構造・文学作品評など、史学分野から除外されるべき論文も少なくない。その中で歴史学の分野から圧倒的に大きな比重を占めているのは韓・日関係史であるが、それもわずか20篇程度に過ぎず、純粋な日本史研究は朱正暾(ジュ・ジョンドン)「卜部兼好の出家の時期について」(『龍鳳論叢』7、1977年)、同氏の「卜部兼好の出家の動機について」(『龍鳳論叢』8、1978年)などの2~3篇に過ぎない。

このように純粋な日本史の論文発表が不振な感があるのは、決して日本史料を扱うことにおいて基本知識である日本古語や文語体の解読がかなり手ごわい点だけによるものではないように思われる。もしかして、解放後の我が国の風潮が、日本史を専攻するのが恥ずかしい学問とされたあの異常な論理が未だに引き続き流れてきているのではないか心配である。(103頁)

 

「回顧と展望」で把握されている韓国における最も早い日本史研究のひとつが兼好法師に関する論考であることは、最近日本で小川剛生『兼好法師』が刊行されて注目を集めていることと重なって、個人的には奇妙な印象を受ける。それにしても、韓・日関係史の論文は韓国史の研究者からもずっと出されていたわけで、そのような関係史の論文をどうみるか、日本史研究として捉えるべきか、という問題は今でも悩ましいところではある。

 

外国の歴史を研究するということは、やはり最初は自国との関係や自国本位の興味関心から始まるのが一般的なのかもしれない。但し、韓国の場合、日本により植民地となって統治されたという過去の記憶もあって、日本史をはじめとする日本学を忌避する傾向が独立後20余年も続いていた。「純粋な日本史」という言葉で表されている、韓国との関係ばかりではなく、もっと日本そのものを理解しようとする動きはその後活発になっていく。但し、個人としての両国の交流は健在だとしても、政府レベルの問題やマスコミによる影響などで相互認識が悪い方向に転がることにより、一部の人々にとっては日本史研究を嫌う昔の「異常な論理」が復活してしまった感は否めない。そのような認識を解消するのが私たちの課題で、1970年代の問題意識は今でも多くの事を考えさせてくれる。

 

日本史でもそうである。我々は好もうと好むまいと彼らのいわゆる明治維新を起点として近代社会へ離陸し隆昌一路をたどっていることは認めざるを得ない。

このような日本に、しかもほとんど可否の選択もできない、言い換えれば宿命的と言わざるを得ず接触せねばならない我が国の東洋史学界において、その研究を敬遠するのは、その理由はどうであれ、矛盾でないとは言われまい。

たかが韓・日間の古代関係を探って、我が文物の日本流伝を確認し、安っぽい民族的優越感を繰り返し強調するような日本史研究の時代はもう陳腐なものとなった。

これからは、彼らの近代化の基礎となった幕藩体制の構造や機能、長崎を拠点として吸収した蘭学の発展、近代日本の経済構造や商人勢力の台頭、そして琉球の黒砂糖輸入独占により膨張した薩摩藩と、韓半島を通じた大陸文物の摂取により肥大化した長州藩などが中心となった日本近代化への足跡のような様々な問題も我々の観点から慎重に取り扱ってみる時期になってきた。(108頁)

 

そして、1980年に入ってから「回顧と展望」でもようやく日本史が独立した項目として叙述されるようになったのだ。

(つづく)

耿君 識