槎上通信

「日本史」といういかだに乗って

【案内】2018年日本史学会(韓国)夏季ワークショップ

2018年日本史学会(韓国)夏季ワークショップ

「東アジアの災難と病気、拡散する衛生と医学」

 

日時:2018年8月17日(金)~18日(土)

場所:全北大学校博物館講堂

 

1日目:8月17日(金)

 

第1部 司会:金普漢(檀国大)

①13:30~13:55

宋浣範(高麗大)

「災難と古代日本」

②13:55~14:20

張基善(宮城教育大)

「日本近世・近代医学知識の社会的機能―診断書・戸籍制度を例として―」

コメント 14:20~14:50

姜銀英(全南大)

キム・ソンヒ(建国大)

 

休憩・特別資料閲覧 14:50~15:20

(『東医宝鑑』完版本とその木版、『増修無冤録』木版、『増修無冤録諺解本』木版)

 

第2部 司会:金宗植(亜洲大)

③15:20~15:45

扈素妍(京都大)

「明治時期の墓地制度と衛生」

④15:45~16:10

パク・ユンジェ(慶煕大)

「衛生から清潔へ―ソウルの近代的糞尿処理―」

⑤シン・キュファン(延世大)

「ペストと帝国医学」

コメント 16:35~17:20

李垠庚(ソウル大)

姜泰雄(光云大)

李炯植(高麗大)

 

休憩 17:20~17:30

 

第3部 総合討論 17:30~18:30

座長:シン・ドンウォン(全北大)

 

2日目:8月18日(土)

巡見(韓屋村など)

【案内】第86回日本史学会(韓国)月例発表会

第86回日本史学会(韓国)月例発表会
2018年3月17日(土)14時〜17時半
於・高麗大学校 芸樵又仙教育館201号

1) コ・デソン(ソウル大)
「室町殿の出行とその意味ー足利義満と義持を中心にー」
* コメント: イ・セヨン(漢陽大)

2) ナムグン・チョル(延世大)
「戦後沖縄の自己決定権の模索と「反復帰論」ー新川明を中心にー」
* コメント: イム・キョンファ(中央大)

3) イ・キルフン(ソウル市立大)
「日本近世都市史ー明地(あきち)と代地(だいち)にみる江戸ー」
* コメント: ヤン・イクモ(韓国外大)

 

朱正暾氏の研究について

歴史学報』「回顧と展望」において、1970年代の数少ない「純粋な日本史」論文の中で朱正暾(ジュ・ジョンドン)氏の研究が2本見られることについては別の記事で述べた。

sajo.hateblo.jp

しかし、その内容は兼好法師の出家に関するもので、朱正暾氏はおそらく日本史研究というよりは日本文学の研究の一環として兼好法師に触れたのではないか、と筆者は考えるようになった。韓国の日本史研究は1970年代に入ってもあまり活発ではなかったが、それに対して日本語や日本文学の研究はもっと早い段階で発展の様相を示していたと思う。

 

朱正暾氏は1995年、啓明大学校人文科学大学日語日文学科副教授職を退任した。啓明大学校日本文化研究所『日本学誌』第15輯(1995年2月)は「青鶴朱正暾教授停年記念」号として発刊されたので、その中に年譜と研究業績のリストが載せられている。以下、その内容に基づいて朱正暾氏の業績を検討したいと思う。

 

朱正暾氏の号は「青鶴」。1930年1月、咸鏡南道端川で生まれた。端川は現在北朝鮮支配下にあり、朱正暾氏は朝鮮戦争の時に南下して韓国で活動することになったと考えられる。18年間陸軍将校として勤めた後、1974年には国際大学(現・西京大学校)日語日文学科を卒業した。1976年には韓国外国語大学大学院日本語科で碩士(修士)号を取得。関東大学、国際大学や全南大学校などで講師を勤め、1978年から全南大学校師範大学の助教授、1983年からは啓明大学校で副教授になった。著書としては『大学日本語』『大学日本文法』という日本語テキストを出している。

 

論文のリストは以下の通り。ほぼすべての論文が日本語で書かれている。中には図書館や論文サイトを通して閲覧できるものもある。ただ、ハングルで書かれている場合が多く、韓国語のわからない利用者には不便。韓国の学術論文データベースDBpiaでの検索結果のリンクを挙げておく。(http://www.dbpia.co.kr/SearchResult/TopSearch?isFullText=0&searchAuthor=%E6%9C%B1%E6%AD%A3%E6%9A%BE)ここでは『日本学誌』に収録された論文が確認できる。サイトは英語対応可能で、機関会員の場合にはダウンロードもできる。

 

*「方丈記の文体に関する研究」

(韓国外国語大学 碩士論文)1975年12月

*「方丈記の広本系統と略本系統との比較的研究」(1)(2)

(『関東大学論文集』第4輯・第5輯、1976年2月・1977年2月)

*「卜部兼好の出家時期について」

(『龍鳳論叢』第7輯、1977年12月)

*「卜部兼好の出家の動機について」(1)(2)

(『龍鳳論叢』第8輯・第10輯、1978年12月・1980年12月)

*「鴨長明の芸術的文学精神について―方丈記を中心に―」

(『韓国外国語大学第25周年記念論文集』第12輯、1979年6月)

*「池亭記と方丈記との比較的研究―作者の意識構造的側面を中心に―」

(『日語日文学研究』第1輯、1979年12月)

*「方丈記の作者と芸術の世界」

(『龍鳳論叢』第11輯、1983年12月)

*「徒然草の序段と随筆的価値」

(『日語日文学研究』第5輯、1984年6月)

*「兼好の人間観―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第5輯、1985年2月)

*「兼好の自然観―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第6輯、1986年2月)

*「兼好の発展的無常観―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第7輯、1987年2月)

*「兼好の無常観とその文学的世界―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第8輯、1988年2月)

*「兼好の伝記研究(1)―家系と家族関係を中心に―」

(『日本学誌』第9輯、1989年2月)

*「兼好の伝記研究(2)―二十代の社会圏を中心に―」

(『日本学誌』第10輯、1990年2月)

*「兼好の伝記研究(3)―関東下向と出家―」

(『日本学誌』第11輯、1991年2月)

*「兼好の伝記研究(4)―出家後の生活とその動静―」

(『日本学誌』第12輯、1992年2月)

*「兼好の伝記研究(5)―四十代を中心に―」

(『日本学誌』第13輯、1993年2月)

*「兼好の伝記研究(6)―兼好自撰家集と徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第14輯、1994年2月)

*「兼好の伝記研究(7)―没年と終焉地を中心に―」

(『日本学誌』第15輯、1995年2月)

 

耿君 識

『歴史学報』の「回顧と展望」と日本史 その二

(その一はこちら)http://sajo.hateblo.jp/entry/2018/01/13/000225

 

1970年代に入っても『歴史学報』「回顧と展望」に日本史項目が設けられることはなかった。東洋史はあくまでも中国を対象とする研究に限られており、日本史の出番はなかった。それでも日本史に関する研究が増えていくという状況は確かに捉えられていた。『歴史学報』第84輯(1979年12月)に載せられた李龍範(イ・ヨンボム)「東洋史・総説」から、当時の東洋史研究者が日本史研究の必要性を強く意識していたことがわかる。

 

中国以外の東洋史学に対する1976年から1978年までの業績として刮目すべきなのは日本史および文学・考古学・言語研究であろう。

まず、3年間で発表された日本学に関する研究は大略71篇程度が数えられるが、時事的な論文と言語構造・文学作品評など、史学分野から除外されるべき論文も少なくない。その中で歴史学の分野から圧倒的に大きな比重を占めているのは韓・日関係史であるが、それもわずか20篇程度に過ぎず、純粋な日本史研究は朱正暾(ジュ・ジョンドン)「卜部兼好の出家の時期について」(『龍鳳論叢』7、1977年)、同氏の「卜部兼好の出家の動機について」(『龍鳳論叢』8、1978年)などの2~3篇に過ぎない。

このように純粋な日本史の論文発表が不振な感があるのは、決して日本史料を扱うことにおいて基本知識である日本古語や文語体の解読がかなり手ごわい点だけによるものではないように思われる。もしかして、解放後の我が国の風潮が、日本史を専攻するのが恥ずかしい学問とされたあの異常な論理が未だに引き続き流れてきているのではないか心配である。(103頁)

 

「回顧と展望」で把握されている韓国における最も早い日本史研究のひとつが兼好法師に関する論考であることは、最近日本で小川剛生『兼好法師』が刊行されて注目を集めていることと重なって、個人的には奇妙な印象を受ける。それにしても、韓・日関係史の論文は韓国史の研究者からもずっと出されていたわけで、そのような関係史の論文をどうみるか、日本史研究として捉えるべきか、という問題は今でも悩ましいところではある。

 

外国の歴史を研究するということは、やはり最初は自国との関係や自国本位の興味関心から始まるのが一般的なのかもしれない。但し、韓国の場合、日本により植民地となって統治されたという過去の記憶もあって、日本史をはじめとする日本学を忌避する傾向が独立後20余年も続いていた。「純粋な日本史」という言葉で表されている、韓国との関係ばかりではなく、もっと日本そのものを理解しようとする動きはその後活発になっていく。但し、個人としての両国の交流は健在だとしても、政府レベルの問題やマスコミによる影響などで相互認識が悪い方向に転がることにより、一部の人々にとっては日本史研究を嫌う昔の「異常な論理」が復活してしまった感は否めない。そのような認識を解消するのが私たちの課題で、1970年代の問題意識は今でも多くの事を考えさせてくれる。

 

日本史でもそうである。我々は好もうと好むまいと彼らのいわゆる明治維新を起点として近代社会へ離陸し隆昌一路をたどっていることは認めざるを得ない。

このような日本に、しかもほとんど可否の選択もできない、言い換えれば宿命的と言わざるを得ず接触せねばならない我が国の東洋史学界において、その研究を敬遠するのは、その理由はどうであれ、矛盾でないとは言われまい。

たかが韓・日間の古代関係を探って、我が文物の日本流伝を確認し、安っぽい民族的優越感を繰り返し強調するような日本史研究の時代はもう陳腐なものとなった。

これからは、彼らの近代化の基礎となった幕藩体制の構造や機能、長崎を拠点として吸収した蘭学の発展、近代日本の経済構造や商人勢力の台頭、そして琉球の黒砂糖輸入独占により膨張した薩摩藩と、韓半島を通じた大陸文物の摂取により肥大化した長州藩などが中心となった日本近代化への足跡のような様々な問題も我々の観点から慎重に取り扱ってみる時期になってきた。(108頁)

 

そして、1980年に入ってから「回顧と展望」でもようやく日本史が独立した項目として叙述されるようになったのだ。

(つづく)

耿君 識

『歴史学報』の「回顧と展望」と日本史 その一

韓国・歴史学会(http://www.kha.re.kr)は、朝鮮戦争もまだ停戦する前の1952年3月に「各地に散在する同学の士を糾合し、国内史学界の鞏固な結束を図り、外では国際的な広汎な提携を待って、歴史学の建立の礎石となろうとする」発起意図をもって結成された。1958年からは震檀学会との共同発起で「全国歴史学大会」を開催し、大会はその後、毎年開かれた。

1962年10月、第5回全国歴史学大会のシンポジウムでは「韓国史研究の回顧と展望」というタイトルの報告があり、その内容は歴史学会の学会誌『歴史学報』第20輯(1963年4月)に収められた。但し、これは韓国史に限定したもので、東洋史西洋史は含まれなかった。

1968年、「毎年前年度の業績を回顧し課題を展望する特輯を翌年9月号に作る計画」が樹立され、ついに『歴史学報』第39輯(1968年)に「1967年度韓国史学界の回顧と展望」という特集が掲載された。韓国史の場合は1963年の回顧と展望を受けてそれ以後の業績を、東洋史西洋史は1945年以後の業績を網羅したという。(李基白(イ・キベク)「はじめに」『歴史学報』39、1968年)

しかし、当時における韓国の東洋史学というのはほとんど中国史に集中していて、日本史研究の論考を確認することはできない。1957年に創設された高麗大学校亜細亜問題研究所(略称「亜研」)に日本研究室が増設されたのが1967年のことだった。(咸洪根(ハム・ホングン)「東洋史・総論」『歴史学報』39、1968年)韓国と日本の関係史を扱う論考はこの時期にももちろん存在したと思われるが、東洋史の「回顧と展望」にまとめられることはなかった。

1968年度「回顧と展望」の東洋史部門にも日本史の出番はなかった。それでも日本史研究の必要性は当時の東洋史研究者たちにも認識されていたはずだ。高柄翊(コ・ビョンイク)は「総論」でこのように述べている。

東洋史学の中では中国史が主な対象となってきたのは今も昔も同じであるところ、その中国史に対しても研究者自身の嗜好により研究対象があまりにも散発的に選ばれており、時代上では古代から近代まで、さらに分野上でも多岐にわたっている。本来研究者の人口が少ないうえで、広範な対象となる中国史のあの角この角に一貫した問題意識なしに触れてみるとしても、我々東洋史学界がカバーできる分野というのはあまりにも断片的なものになることを免れ難い。したがって、これからは少数の人力をもって学界により意義ある貢献ができるように、我々自身の観点からもっと有意義な分野や時代で、ある程度対象を狭くして集中するのがひとつの方案ではないかと考えられる。

これは必然的に中国以外の地域の歴史に対する研究をより不可能にする点があるのも事実である。しかし、これから史学科を出てくる後進たちをある程度計画的に他の地域に対する興味関心を持たせて、日本人(ママ)および東南アジア史への拡大を企てることはできると考えられる。日本歴史はその重要性にもかかわらず、この年にも1篇の史学論文もなく、ただ越南史において儒教文化に関する初歩的な調査論文が1篇出ただけである。

(119~120頁)

 1971年『歴史学報』第49輯に載せられた「回顧と展望」は1969年から1970年までの2年間の研究成果を網羅したものだった。日本史の項目が別に設けられてはいないものの、韓国における日本史の研究にも少しは変化が見え始めた。中国史一色の研究状況の中から、日本史の研究も一定の持分を有するようになったのだ。今月亡くなった韓国の有名な東洋史学者全海宗(ジョン・ヘジョン)はこの「回顧と展望」の東洋史「総論」でこう述べている。

上記の学報や、その他の歴史関係の学会機関誌および一般学術誌に収録された論文の数は約100篇におよぶ。これらの論文の大部分は中国史に関するもので、日本に関するものが一部分を占める。そして、韓国と中国および日本との関係についてのものも少なくなく、日本に対する学問的関心が近来著しく高まっているのは当然のことといえる。但し、日本史自体についての研究はほとんどなく、現代日本に関する1、2篇を除いては、最近の日本の韓国との関係、または大陸侵略に関係する論文のみである。(106頁)

さて、ここまでは1960年代までの日本史の状況を見てきたが、1970年代からはどのような変化が生じたのだろうか。

(つづく)http://sajo.hateblo.jp/entry/2018/01/20/102803

耿君 識

 

金賢祐「「刀伊(東女真)の侵寇」事件の再検討と麗日関係の変化」

金賢祐(キム・ヒョンウ)「「刀伊(東女真)の侵寇」事件の再検討と麗日関係の変化」『日本学』45、2017年11月〔韓国語〕

(김현우, 「'刀伊(동여진)의 침구' 사건의 재검토와 여일관계의 변화」, 『일본학』 45, 2017.11)

 

著者の金さんより抜き刷りを頂いた。ありがとうございます。

金さんは、日本の対外関係、特に平安時代における日本と高麗との関係に注目して考察を続けている研究者である。他に論考には「高麗文宗の医師派遣要請と麗日関係」(『日本歴史研究』41、2015年)などがある。この論文は、2016年度読史会大会(2016年11月3日)での研究報告「刀伊の侵寇事件の再検討―襲来の過程と高麗の捕虜送還を中心に―」をもとにしているものと考えられる。

『日本学』は韓国・東国大学校の日本学研究所で刊行している学術誌である。日本学研究所は1979年9月設立され、日本関連研究の発表会および講演会を開催し、研究叢書・翻訳叢書などを刊行している。学術誌の『日本学』は1981年12月に初めて発行された。

 

さて、金論文の内容を少しだけ紹介することにしよう。論文の目次は次のようになっている。

はじめに

1.襲撃経路と東女真の航海術

2.東女真海賊の日本行きと「島に隠れて」

3.高麗の日本人捕虜に対する待遇と麗日関係

おわりに

金論文は、

史料上に見える「刀伊」という表現が一般名詞ではなく東女真を俗にいう呼称であったため、「刀伊」を東女真と統一して表記することにする。(145頁)

といっており、実際に本文では、刀伊のことを指して一貫して東女真と呼んでいる。なので、論文のタイトルでも「刀伊(東女真)」という書き方になったのだろう。

「刀伊の侵寇」事件に関する先行研究に対して、事件の解釈をめぐって3つの疑問点が提示されている。

①日本への航海の経験のない東女真が、初めての航海で筑紫道(対馬壱岐―博多)を利用していること

②内蔵石女の証言(『小右記』寛仁3年(1019)8月3日条裏書の大宰府解)には「島に隠れて」と書いてあるが、当時の東女真海賊は50余艘もの大船団で、移動経路にあたる朝鮮半島東海岸には隠れるような島が存在しないこと

③高麗により救出された捕虜たちが手厚いもてなしを受け、その一部は馬に乗せられるなど、あまりにも優遇されすぎたこと

そして、それぞれの疑問点について再検討を行っている。①については、東女真が高麗の東海岸を沿岸航海で移動したという既存の見解に対し、当時の東女真は大洋航海が可能であり、高麗水軍の防備を避けて高麗の東南部を襲撃し、すぐ対馬方面へと向かったとみる。②については、東女真大宰府の武士たちの抵抗により敗退した後、東海岸に向かったのではなく、勢力整備のため高麗の南海岸に隠れたとする。③については、日本との国交関係を結ぶために、捕虜の送還を緻密に準備し、日本の対高麗認識を改善しようとしたという。なお、高麗が日本との通交を望んだ理由を、契丹との戦争が勃発した時に日本からの侵入の可能性を未然に防ごうとしたから、とみている。

この事件での捕虜送還により、大宰府周辺の商人が高麗に渡航するなど、日本の対高麗認識が変化し始め、日本の朝廷でも友好的な認識を有するようになった、というのが金論文の主旨といえよう。

最近でも、日本の新羅に対する警戒心が高麗にスライドし、いつ高麗が攻めてくるかもしれないという危機意識がずっと続いて、その雰囲気が蒙古襲来、さらには文禄・慶長の役壬辰倭乱)にまでつながるという、不仲の連鎖で韓・日関係史を描く傾向があるように思われる。でも、個人的には、当時にもやはり相互の肯定的な認識を形成しようとする動きが見られるのであれば、関係改善の(努力の)歴史にも目を向けていきたいものだ。

 

耿君 識

はじめに

はじめまして。耿君と申します。

耿君の読み方は「あきらくん」でも「こうくん」でもOKです。

 

今日からブログ<槎上通信>を始めたいと思います。

「槎上(さじょう)」とは直訳すると「いかだの上」になりますが、

遠く旅行に行っている途中のことを意味し、

朝鮮通信使や中国の使者の使行録のタイトルによく見える言葉です。

 

私は韓国出身で、日本史を研究するために日本で留学しています。

自分自身が渡日しているのも「槎上」にあたるのですが、

日本史こそ私にとって世の中を渡るいかだのようなものです。

このブログでは、そのいかだの上での話をお伝えすることにいたします。

よろしくお願いいたします。