槎上通信

「日本史」といういかだに乗って

『歴史学報』の「回顧と展望」と日本史 その二

(その一はこちら)http://sajo.hateblo.jp/entry/2018/01/13/000225

 

1970年代に入っても『歴史学報』「回顧と展望」に日本史項目が設けられることはなかった。東洋史はあくまでも中国を対象とする研究に限られており、日本史の出番はなかった。それでも日本史に関する研究が増えていくという状況は確かに捉えられていた。『歴史学報』第84輯(1979年12月)に載せられた李龍範(イ・ヨンボム)「東洋史・総説」から、当時の東洋史研究者が日本史研究の必要性を強く意識していたことがわかる。

 

中国以外の東洋史学に対する1976年から1978年までの業績として刮目すべきなのは日本史および文学・考古学・言語研究であろう。

まず、3年間で発表された日本学に関する研究は大略71篇程度が数えられるが、時事的な論文と言語構造・文学作品評など、史学分野から除外されるべき論文も少なくない。その中で歴史学の分野から圧倒的に大きな比重を占めているのは韓・日関係史であるが、それもわずか20篇程度に過ぎず、純粋な日本史研究は朱正暾(ジュ・ジョンドン)「卜部兼好の出家の時期について」(『龍鳳論叢』7、1977年)、同氏の「卜部兼好の出家の動機について」(『龍鳳論叢』8、1978年)などの2~3篇に過ぎない。

このように純粋な日本史の論文発表が不振な感があるのは、決して日本史料を扱うことにおいて基本知識である日本古語や文語体の解読がかなり手ごわい点だけによるものではないように思われる。もしかして、解放後の我が国の風潮が、日本史を専攻するのが恥ずかしい学問とされたあの異常な論理が未だに引き続き流れてきているのではないか心配である。(103頁)

 

「回顧と展望」で把握されている韓国における最も早い日本史研究のひとつが兼好法師に関する論考であることは、最近日本で小川剛生『兼好法師』が刊行されて注目を集めていることと重なって、個人的には奇妙な印象を受ける。それにしても、韓・日関係史の論文は韓国史の研究者からもずっと出されていたわけで、そのような関係史の論文をどうみるか、日本史研究として捉えるべきか、という問題は今でも悩ましいところではある。

 

外国の歴史を研究するということは、やはり最初は自国との関係や自国本位の興味関心から始まるのが一般的なのかもしれない。但し、韓国の場合、日本により植民地となって統治されたという過去の記憶もあって、日本史をはじめとする日本学を忌避する傾向が独立後20余年も続いていた。「純粋な日本史」という言葉で表されている、韓国との関係ばかりではなく、もっと日本そのものを理解しようとする動きはその後活発になっていく。但し、個人としての両国の交流は健在だとしても、政府レベルの問題やマスコミによる影響などで相互認識が悪い方向に転がることにより、一部の人々にとっては日本史研究を嫌う昔の「異常な論理」が復活してしまった感は否めない。そのような認識を解消するのが私たちの課題で、1970年代の問題意識は今でも多くの事を考えさせてくれる。

 

日本史でもそうである。我々は好もうと好むまいと彼らのいわゆる明治維新を起点として近代社会へ離陸し隆昌一路をたどっていることは認めざるを得ない。

このような日本に、しかもほとんど可否の選択もできない、言い換えれば宿命的と言わざるを得ず接触せねばならない我が国の東洋史学界において、その研究を敬遠するのは、その理由はどうであれ、矛盾でないとは言われまい。

たかが韓・日間の古代関係を探って、我が文物の日本流伝を確認し、安っぽい民族的優越感を繰り返し強調するような日本史研究の時代はもう陳腐なものとなった。

これからは、彼らの近代化の基礎となった幕藩体制の構造や機能、長崎を拠点として吸収した蘭学の発展、近代日本の経済構造や商人勢力の台頭、そして琉球の黒砂糖輸入独占により膨張した薩摩藩と、韓半島を通じた大陸文物の摂取により肥大化した長州藩などが中心となった日本近代化への足跡のような様々な問題も我々の観点から慎重に取り扱ってみる時期になってきた。(108頁)

 

そして、1980年に入ってから「回顧と展望」でもようやく日本史が独立した項目として叙述されるようになったのだ。

(つづく)

耿君 識