槎上通信

「日本史」といういかだに乗って

朱正暾氏の研究について

歴史学報』「回顧と展望」において、1970年代の数少ない「純粋な日本史」論文の中で朱正暾(ジュ・ジョンドン)氏の研究が2本見られることについては別の記事で述べた。

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しかし、その内容は兼好法師の出家に関するもので、朱正暾氏はおそらく日本史研究というよりは日本文学の研究の一環として兼好法師に触れたのではないか、と筆者は考えるようになった。韓国の日本史研究は1970年代に入ってもあまり活発ではなかったが、それに対して日本語や日本文学の研究はもっと早い段階で発展の様相を示していたと思う。

 

朱正暾氏は1995年、啓明大学校人文科学大学日語日文学科副教授職を退任した。啓明大学校日本文化研究所『日本学誌』第15輯(1995年2月)は「青鶴朱正暾教授停年記念」号として発刊されたので、その中に年譜と研究業績のリストが載せられている。以下、その内容に基づいて朱正暾氏の業績を検討したいと思う。

 

朱正暾氏の号は「青鶴」。1930年1月、咸鏡南道端川で生まれた。端川は現在北朝鮮支配下にあり、朱正暾氏は朝鮮戦争の時に南下して韓国で活動することになったと考えられる。18年間陸軍将校として勤めた後、1974年には国際大学(現・西京大学校)日語日文学科を卒業した。1976年には韓国外国語大学大学院日本語科で碩士(修士)号を取得。関東大学、国際大学や全南大学校などで講師を勤め、1978年から全南大学校師範大学の助教授、1983年からは啓明大学校で副教授になった。著書としては『大学日本語』『大学日本文法』という日本語テキストを出している。

 

論文のリストは以下の通り。ほぼすべての論文が日本語で書かれている。中には図書館や論文サイトを通して閲覧できるものもある。ただ、ハングルで書かれている場合が多く、韓国語のわからない利用者には不便。韓国の学術論文データベースDBpiaでの検索結果のリンクを挙げておく。(http://www.dbpia.co.kr/SearchResult/TopSearch?isFullText=0&searchAuthor=%E6%9C%B1%E6%AD%A3%E6%9A%BE)ここでは『日本学誌』に収録された論文が確認できる。サイトは英語対応可能で、機関会員の場合にはダウンロードもできる。

 

*「方丈記の文体に関する研究」

(韓国外国語大学 碩士論文)1975年12月

*「方丈記の広本系統と略本系統との比較的研究」(1)(2)

(『関東大学論文集』第4輯・第5輯、1976年2月・1977年2月)

*「卜部兼好の出家時期について」

(『龍鳳論叢』第7輯、1977年12月)

*「卜部兼好の出家の動機について」(1)(2)

(『龍鳳論叢』第8輯・第10輯、1978年12月・1980年12月)

*「鴨長明の芸術的文学精神について―方丈記を中心に―」

(『韓国外国語大学第25周年記念論文集』第12輯、1979年6月)

*「池亭記と方丈記との比較的研究―作者の意識構造的側面を中心に―」

(『日語日文学研究』第1輯、1979年12月)

*「方丈記の作者と芸術の世界」

(『龍鳳論叢』第11輯、1983年12月)

*「徒然草の序段と随筆的価値」

(『日語日文学研究』第5輯、1984年6月)

*「兼好の人間観―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第5輯、1985年2月)

*「兼好の自然観―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第6輯、1986年2月)

*「兼好の発展的無常観―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第7輯、1987年2月)

*「兼好の無常観とその文学的世界―徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第8輯、1988年2月)

*「兼好の伝記研究(1)―家系と家族関係を中心に―」

(『日本学誌』第9輯、1989年2月)

*「兼好の伝記研究(2)―二十代の社会圏を中心に―」

(『日本学誌』第10輯、1990年2月)

*「兼好の伝記研究(3)―関東下向と出家―」

(『日本学誌』第11輯、1991年2月)

*「兼好の伝記研究(4)―出家後の生活とその動静―」

(『日本学誌』第12輯、1992年2月)

*「兼好の伝記研究(5)―四十代を中心に―」

(『日本学誌』第13輯、1993年2月)

*「兼好の伝記研究(6)―兼好自撰家集と徒然草を中心に―」

(『日本学誌』第14輯、1994年2月)

*「兼好の伝記研究(7)―没年と終焉地を中心に―」

(『日本学誌』第15輯、1995年2月)

 

耿君 識