明治大学図書館司書・徐基俊を探して
*この文章は韓国・国立中央図書館から刊行された月刊『今日の図書館』2021年11月号(第31巻第9号、通巻297号、2021年10月29日発行)に収録されたものの日本語訳です。(韓国語原文:김현경, 「메이지대학 도서관 사서 서기준을 찾아서」, 『오늘의 도서관』 31(9), 2021。下はWeb版のリンク)
〈司書の記録〉
近代図書館の歴史というパズル、その隠された一つのピース
明治大学図書館司書・徐基俊を探して
写真:国立中央図書館、金玄耿
外国の近代文物が韓半島に流入する過程のなかで、図書や資料を収集して保存するだけでなく、読者にその資料を公開して利用可能にする近代的な図書館はその地に根付くようになった。そのような図書館を経営し、資料を収集・整理・保管する司書もまた図書館の設立とともに登場した。しかし、図書館の草創期にあたる植民地時代、司書として勤務した朝鮮人はとても少なかった。しかも、海外の近代図書館で働いた司書としては、1930年代、日本・東洋文庫の司書であった孫晋泰くらいしか知られていない。ところが、同時代において数年間、日本の大学の図書館で仕事をした朝鮮人司書がいたとすればどうか。
日本留学から帰ってきて、再び日本へ
徐基俊(1900~?)は、1900年10月9日、忠清南道論山郡(現・論山市)で徐一勳(1878~1946)の長男として生まれた。父の一勳は、1900年9月に大韓帝国宮内部通信司電話課主事に短期間ながら任じられたことがあり、論山や扶余あたりに多くの土地を所有しており、「実業家」としても知られていた。徐基俊は日本へ留学に行き、1923年3月、明治大学政治経済科専門部を卒業した。専門部は専門学校令に依拠して設立され、修業年限は3年であった。日本および朝鮮総督府の官吏は、勅任官・奏任官・判任官の三つに大きく分けられるが、当時の明治大学の規定によれば、専門部特科で3年の課程を履修して卒業したものは普通文官試験を免除され、判任文官に任用される資格を有することとなった。1924年4月現在『朝鮮総督府及所属官署職員録』には全羅北道内務部地方課道属兼全羅北道全州郡属として徐基俊の名前が見える。道属はまさに判任官に該当する官職であり、徐基俊は卒業後、帰国して全羅北道の官吏として就職していたことがわかる。
1924年7月現在の職員録にも全羅北道財務部道属として名前が載っている徐基俊であったが、同年10月には東京に滞在しており、朝鮮人協会東京本部の総務を務めていたことが確認される。つまり、10月以前には道属を辞めて、再び渡日して朝鮮人協会に参加したのである。朝鮮人協会は、1922年、大阪を中心に結成され、朝鮮人に対する差別の撤廃と「内鮮融和」、そして就職斡旋や宿所提供など、朝鮮人救済活動に関わる団体であった。1925年、朝鮮では「乙丑年大洪水」と呼ばれた大規模の水災が発生し、東京の朝鮮人協会は罹災した同胞を救済するために故国水害同胞救済団を組織して救援金を募集したが、総務の徐基俊はその救援金を届ける慰問使として一時帰国した。
明治大学図書館で働く
その徐基俊が、1926年には再び母校である明治大学の図書館に姿を現した。明治大学中央図書館所蔵の『日誌 大正12年(1923)9月~15年(1926)3月』をみると、1926年1月19日から貸出係として徐基俊が出務したとある。彼が明治大学図書館に入るようになった経緯は定かではないが、彼の出勤1週前の1月12日、森本謙蔵が司書職に就き、16日には職員2人の送別会が開催されたと日誌に記されているので、こうした人事異動が徐基俊の就職につながったものと考えられる。
日誌は1926年3月15日で終わり、徐基俊についての言及はかなり少ないが、その短い記録から、図書館で働いていた当時の徐基俊の姿が少しでもうかがえるのではないだろうか。その内容を次のように簡単にまとめておく。明治大学の図書館員たちは月曜日から土曜日まで出勤したが、徐基俊は1月27日正午に早退し、28日にも風邪のため途中帰宅し、30日に欠勤したのを除けば、誠実に出勤していたとみられる。3月1日、東京帝国大学図書館において展覧会が開かれた。図書館で開催される展覧会であるだけに、この日は森本司書と桜井昌夫という職員が参観したが、翌日の2日午前には持永栄次と浜田が、午後には徐基俊も展覧会を見学に行った。3月4日、図書貸出所と事務室の模様替え工事案が可決され、7日には工事が実施されたが、工事監督の仕事のために森本司書と桜井・徐基俊を含む5人が午前8時より出勤していた。なお、4日には大学幹部の大西種次郎が徐基俊を夜間貸出係として増員すべき旨を示達し、徐基俊は8日から夜間貸出の担当となった。
政治経済科専門で卒業後は官吏になった徐基俊がいきなり図書館職員の道を歩むようになったのは不思議なことである。それでも、彼が1926年5月5日、在日朝鮮人作家の金煕明の主導による同人雑誌『野獣群』主催の文芸漫談会に出席し、1927年には野獣群の同人として参加したことを考慮すれば、政治に関わる文芸活動にも興味を持っていたようである。
司書就任と同窓会活動
1929年、森本司書の推薦によって、明治大学図書館の職員5人が日本図書館協会に会員として入会した。なかには持永栄次、そして徐基俊が含まれていた。徐基俊は入会翌年の1930年5月に開催された第24回全国図書館大会に森本・持永らとともに参加した。徐基俊は1932年5月の第26回全国図書館大会にも参加したことから、図書館構成員として図書館協会で行った活動が単発的なものではなかったようにみえる。1932年には明治大学図書館書記という職名が付けられており、1930~1932年のある時点で書記に任じられたと考えられる。
そして、1933年4月に刊行された日本図書館協会誌の『図書館雑誌』によれば、徐基俊の職名が明治大学図書館司書に変更されている。1935年7月明治大学一覧に収録された職員の名簿には、当時の司書長に森本謙蔵の名前がみえ、5人の司書のうち徐基俊が含まれている。こうして徐基俊が日本の大学の図書館司書として勤務した経歴が確認できる。
1933年11月8日、徐基俊は、自分が司書として働いている図書館に、明治大学朝鮮留学生同窓会『会報』第5号と第6号を寄贈した。明治大学の職員でありながら、朝鮮留学生同窓会でも中心人物として活動していた彼は、1935年10月、明治大学朝鮮留学生同窓会主催の在東京朝鮮留学生蹴球大会において、同窓会長として開会の辞を述べた。
いきなりの退職、そして解放以後
ところで、蹴球大会が開かれてから約2ヶ月が経った1935年12月に刊行された『図書館雑誌』には、徐基俊が日本図書館協会を退会したとの知らせが載せられた。1937年11月現在明治大学一覧の職員名簿にも、図書館職員に徐基俊の名前は見えず、明治大学中央図書館所蔵の1937年度事務日誌にも徐基俊は登場しないので、1935~1936年には徐基俊が明治大学図書館の司書を辞めたのは確かである。彼の退職の経緯は明らかでない。
1939年7月、朝鮮・京城府内に支給された電話の架設の申請者のうち、当選した人々のリストが新聞に掲載されたが、そのなかには「徐基俊」も入っている。同年10月現在の京城・永登浦電話番号簿(KT所蔵)には「徐基俊」(光化門局3-4262)の住所が苑南町93番地、職業は鉱業となっている。この「徐基俊」が明治大学図書館司書の徐基俊と同一人物であるとすれば、彼は退職後、朝鮮に帰って1939年には京城で活動していたことになる。
徐基俊の行跡は植民地からの解放の後に再び確認されるが、政治家としての活動が目立つ。1945年9月、韓国民主党の発起人の一人として参加し、中央執行委員会事務局の需給担当委員を務め、1946年には非常国民会議籌備会の庶務委員会計記録責任者を経て、米軍政下における民主議院では秘書局総務課長の職に就いていた。また、法律評論協会という団体の代表としても活動し、1948年の制憲国会議員選挙では忠清南道扶余(乙)の候補として出馬した。しかし、朝鮮戦争が勃発し、1950年7月、民主国民党監察委員長を務めていた徐基俊はソウルで北朝鮮軍により拉致され、その後の行方はわからなくなった。
残念ながら、帰国後、徐基俊が図書館人として活動した痕跡は見当たらず、徐基俊という人物自体についても依然として不明な点が多い。それでも徐基俊が約10年間、日本の大学図書館における勤務を通じて、図書館や司書に関する貴重な体験をしたのは確かである。ほかにも歴史のパズルのピースを集めて、彼の人生を再構成していく過程のなかで、また近代図書館と図書館人の歴史を書き直すような発見があることを期待する。
ーおわりー