槎上通信

「日本史」といういかだに乗って

金賢祐「「刀伊(東女真)の侵寇」事件の再検討と麗日関係の変化」

金賢祐(キム・ヒョンウ)「「刀伊(東女真)の侵寇」事件の再検討と麗日関係の変化」『日本学』45、2017年11月〔韓国語〕

(김현우, 「'刀伊(동여진)의 침구' 사건의 재검토와 여일관계의 변화」, 『일본학』 45, 2017.11)

 

著者の金さんより抜き刷りを頂いた。ありがとうございます。

金さんは、日本の対外関係、特に平安時代における日本と高麗との関係に注目して考察を続けている研究者である。他に論考には「高麗文宗の医師派遣要請と麗日関係」(『日本歴史研究』41、2015年)などがある。この論文は、2016年度読史会大会(2016年11月3日)での研究報告「刀伊の侵寇事件の再検討―襲来の過程と高麗の捕虜送還を中心に―」をもとにしているものと考えられる。

『日本学』は韓国・東国大学校の日本学研究所で刊行している学術誌である。日本学研究所は1979年9月設立され、日本関連研究の発表会および講演会を開催し、研究叢書・翻訳叢書などを刊行している。学術誌の『日本学』は1981年12月に初めて発行された。

 

さて、金論文の内容を少しだけ紹介することにしよう。論文の目次は次のようになっている。

はじめに

1.襲撃経路と東女真の航海術

2.東女真海賊の日本行きと「島に隠れて」

3.高麗の日本人捕虜に対する待遇と麗日関係

おわりに

金論文は、

史料上に見える「刀伊」という表現が一般名詞ではなく東女真を俗にいう呼称であったため、「刀伊」を東女真と統一して表記することにする。(145頁)

といっており、実際に本文では、刀伊のことを指して一貫して東女真と呼んでいる。なので、論文のタイトルでも「刀伊(東女真)」という書き方になったのだろう。

「刀伊の侵寇」事件に関する先行研究に対して、事件の解釈をめぐって3つの疑問点が提示されている。

①日本への航海の経験のない東女真が、初めての航海で筑紫道(対馬壱岐―博多)を利用していること

②内蔵石女の証言(『小右記』寛仁3年(1019)8月3日条裏書の大宰府解)には「島に隠れて」と書いてあるが、当時の東女真海賊は50余艘もの大船団で、移動経路にあたる朝鮮半島東海岸には隠れるような島が存在しないこと

③高麗により救出された捕虜たちが手厚いもてなしを受け、その一部は馬に乗せられるなど、あまりにも優遇されすぎたこと

そして、それぞれの疑問点について再検討を行っている。①については、東女真が高麗の東海岸を沿岸航海で移動したという既存の見解に対し、当時の東女真は大洋航海が可能であり、高麗水軍の防備を避けて高麗の東南部を襲撃し、すぐ対馬方面へと向かったとみる。②については、東女真大宰府の武士たちの抵抗により敗退した後、東海岸に向かったのではなく、勢力整備のため高麗の南海岸に隠れたとする。③については、日本との国交関係を結ぶために、捕虜の送還を緻密に準備し、日本の対高麗認識を改善しようとしたという。なお、高麗が日本との通交を望んだ理由を、契丹との戦争が勃発した時に日本からの侵入の可能性を未然に防ごうとしたから、とみている。

この事件での捕虜送還により、大宰府周辺の商人が高麗に渡航するなど、日本の対高麗認識が変化し始め、日本の朝廷でも友好的な認識を有するようになった、というのが金論文の主旨といえよう。

最近でも、日本の新羅に対する警戒心が高麗にスライドし、いつ高麗が攻めてくるかもしれないという危機意識がずっと続いて、その雰囲気が蒙古襲来、さらには文禄・慶長の役壬辰倭乱)にまでつながるという、不仲の連鎖で韓・日関係史を描く傾向があるように思われる。でも、個人的には、当時にもやはり相互の肯定的な認識を形成しようとする動きが見られるのであれば、関係改善の(努力の)歴史にも目を向けていきたいものだ。

 

耿君 識