槎上通信

「日本史」といういかだに乗って

『歴史学報』の「回顧と展望」と日本史 その一

韓国・歴史学会(http://www.kha.re.kr)は、朝鮮戦争もまだ停戦する前の1952年3月に「各地に散在する同学の士を糾合し、国内史学界の鞏固な結束を図り、外では国際的な広汎な提携を待って、歴史学の建立の礎石となろうとする」発起意図をもって結成された。1958年からは震檀学会との共同発起で「全国歴史学大会」を開催し、大会はその後、毎年開かれた。

1962年10月、第5回全国歴史学大会のシンポジウムでは「韓国史研究の回顧と展望」というタイトルの報告があり、その内容は歴史学会の学会誌『歴史学報』第20輯(1963年4月)に収められた。但し、これは韓国史に限定したもので、東洋史西洋史は含まれなかった。

1968年、「毎年前年度の業績を回顧し課題を展望する特輯を翌年9月号に作る計画」が樹立され、ついに『歴史学報』第39輯(1968年)に「1967年度韓国史学界の回顧と展望」という特集が掲載された。韓国史の場合は1963年の回顧と展望を受けてそれ以後の業績を、東洋史西洋史は1945年以後の業績を網羅したという。(李基白(イ・キベク)「はじめに」『歴史学報』39、1968年)

しかし、当時における韓国の東洋史学というのはほとんど中国史に集中していて、日本史研究の論考を確認することはできない。1957年に創設された高麗大学校亜細亜問題研究所(略称「亜研」)に日本研究室が増設されたのが1967年のことだった。(咸洪根(ハム・ホングン)「東洋史・総論」『歴史学報』39、1968年)韓国と日本の関係史を扱う論考はこの時期にももちろん存在したと思われるが、東洋史の「回顧と展望」にまとめられることはなかった。

1968年度「回顧と展望」の東洋史部門にも日本史の出番はなかった。それでも日本史研究の必要性は当時の東洋史研究者たちにも認識されていたはずだ。高柄翊(コ・ビョンイク)は「総論」でこのように述べている。

東洋史学の中では中国史が主な対象となってきたのは今も昔も同じであるところ、その中国史に対しても研究者自身の嗜好により研究対象があまりにも散発的に選ばれており、時代上では古代から近代まで、さらに分野上でも多岐にわたっている。本来研究者の人口が少ないうえで、広範な対象となる中国史のあの角この角に一貫した問題意識なしに触れてみるとしても、我々東洋史学界がカバーできる分野というのはあまりにも断片的なものになることを免れ難い。したがって、これからは少数の人力をもって学界により意義ある貢献ができるように、我々自身の観点からもっと有意義な分野や時代で、ある程度対象を狭くして集中するのがひとつの方案ではないかと考えられる。

これは必然的に中国以外の地域の歴史に対する研究をより不可能にする点があるのも事実である。しかし、これから史学科を出てくる後進たちをある程度計画的に他の地域に対する興味関心を持たせて、日本人(ママ)および東南アジア史への拡大を企てることはできると考えられる。日本歴史はその重要性にもかかわらず、この年にも1篇の史学論文もなく、ただ越南史において儒教文化に関する初歩的な調査論文が1篇出ただけである。

(119~120頁)

 1971年『歴史学報』第49輯に載せられた「回顧と展望」は1969年から1970年までの2年間の研究成果を網羅したものだった。日本史の項目が別に設けられてはいないものの、韓国における日本史の研究にも少しは変化が見え始めた。中国史一色の研究状況の中から、日本史の研究も一定の持分を有するようになったのだ。今月亡くなった韓国の有名な東洋史学者全海宗(ジョン・ヘジョン)はこの「回顧と展望」の東洋史「総論」でこう述べている。

上記の学報や、その他の歴史関係の学会機関誌および一般学術誌に収録された論文の数は約100篇におよぶ。これらの論文の大部分は中国史に関するもので、日本に関するものが一部分を占める。そして、韓国と中国および日本との関係についてのものも少なくなく、日本に対する学問的関心が近来著しく高まっているのは当然のことといえる。但し、日本史自体についての研究はほとんどなく、現代日本に関する1、2篇を除いては、最近の日本の韓国との関係、または大陸侵略に関係する論文のみである。(106頁)

さて、ここまでは1960年代までの日本史の状況を見てきたが、1970年代からはどのような変化が生じたのだろうか。

(つづく)http://sajo.hateblo.jp/entry/2018/01/20/102803

耿君 識

 

金賢祐「「刀伊(東女真)の侵寇」事件の再検討と麗日関係の変化」

金賢祐(キム・ヒョンウ)「「刀伊(東女真)の侵寇」事件の再検討と麗日関係の変化」『日本学』45、2017年11月〔韓国語〕

(김현우, 「'刀伊(동여진)의 침구' 사건의 재검토와 여일관계의 변화」, 『일본학』 45, 2017.11)

 

著者の金さんより抜き刷りを頂いた。ありがとうございます。

金さんは、日本の対外関係、特に平安時代における日本と高麗との関係に注目して考察を続けている研究者である。他に論考には「高麗文宗の医師派遣要請と麗日関係」(『日本歴史研究』41、2015年)などがある。この論文は、2016年度読史会大会(2016年11月3日)での研究報告「刀伊の侵寇事件の再検討―襲来の過程と高麗の捕虜送還を中心に―」をもとにしているものと考えられる。

『日本学』は韓国・東国大学校の日本学研究所で刊行している学術誌である。日本学研究所は1979年9月設立され、日本関連研究の発表会および講演会を開催し、研究叢書・翻訳叢書などを刊行している。学術誌の『日本学』は1981年12月に初めて発行された。

 

さて、金論文の内容を少しだけ紹介することにしよう。論文の目次は次のようになっている。

はじめに

1.襲撃経路と東女真の航海術

2.東女真海賊の日本行きと「島に隠れて」

3.高麗の日本人捕虜に対する待遇と麗日関係

おわりに

金論文は、

史料上に見える「刀伊」という表現が一般名詞ではなく東女真を俗にいう呼称であったため、「刀伊」を東女真と統一して表記することにする。(145頁)

といっており、実際に本文では、刀伊のことを指して一貫して東女真と呼んでいる。なので、論文のタイトルでも「刀伊(東女真)」という書き方になったのだろう。

「刀伊の侵寇」事件に関する先行研究に対して、事件の解釈をめぐって3つの疑問点が提示されている。

①日本への航海の経験のない東女真が、初めての航海で筑紫道(対馬壱岐―博多)を利用していること

②内蔵石女の証言(『小右記』寛仁3年(1019)8月3日条裏書の大宰府解)には「島に隠れて」と書いてあるが、当時の東女真海賊は50余艘もの大船団で、移動経路にあたる朝鮮半島東海岸には隠れるような島が存在しないこと

③高麗により救出された捕虜たちが手厚いもてなしを受け、その一部は馬に乗せられるなど、あまりにも優遇されすぎたこと

そして、それぞれの疑問点について再検討を行っている。①については、東女真が高麗の東海岸を沿岸航海で移動したという既存の見解に対し、当時の東女真は大洋航海が可能であり、高麗水軍の防備を避けて高麗の東南部を襲撃し、すぐ対馬方面へと向かったとみる。②については、東女真大宰府の武士たちの抵抗により敗退した後、東海岸に向かったのではなく、勢力整備のため高麗の南海岸に隠れたとする。③については、日本との国交関係を結ぶために、捕虜の送還を緻密に準備し、日本の対高麗認識を改善しようとしたという。なお、高麗が日本との通交を望んだ理由を、契丹との戦争が勃発した時に日本からの侵入の可能性を未然に防ごうとしたから、とみている。

この事件での捕虜送還により、大宰府周辺の商人が高麗に渡航するなど、日本の対高麗認識が変化し始め、日本の朝廷でも友好的な認識を有するようになった、というのが金論文の主旨といえよう。

最近でも、日本の新羅に対する警戒心が高麗にスライドし、いつ高麗が攻めてくるかもしれないという危機意識がずっと続いて、その雰囲気が蒙古襲来、さらには文禄・慶長の役壬辰倭乱)にまでつながるという、不仲の連鎖で韓・日関係史を描く傾向があるように思われる。でも、個人的には、当時にもやはり相互の肯定的な認識を形成しようとする動きが見られるのであれば、関係改善の(努力の)歴史にも目を向けていきたいものだ。

 

耿君 識

はじめに

はじめまして。耿君と申します。

耿君の読み方は「あきらくん」でも「こうくん」でもOKです。

 

今日からブログ<槎上通信>を始めたいと思います。

「槎上(さじょう)」とは直訳すると「いかだの上」になりますが、

遠く旅行に行っている途中のことを意味し、

朝鮮通信使や中国の使者の使行録のタイトルによく見える言葉です。

 

私は韓国出身で、日本史を研究するために日本で留学しています。

自分自身が渡日しているのも「槎上」にあたるのですが、

日本史こそ私にとって世の中を渡るいかだのようなものです。

このブログでは、そのいかだの上での話をお伝えすることにいたします。

よろしくお願いいたします。